紺色のセーラー服の襟が、春の海風で靡いている。比嘉中の制服とは違うそれを着ている彼女は、体育座りをして自分の膝に顔をうずめたまま、俺の隣で静かに泣いている。 彼女は、両親の都合で東京の学校から転校してきたらしい。転校初日に、「です。」と名乗って以来、彼女は喋ろうとしなかった。転校初日にクラスの女子が東京の事について聞こうと彼女の席に群がっていた時でも、授業中に先生に当てられた時でさえも、彼女は声を発さなかった。ただ黙って、”ロミオとジュリエット”という本をいつも読んでいた。 俺は、毎日隣の席から、細くて白い指がその本のページを捲るのを、授業中にしょっちゅう覗き見ていた。1つに結い上げられた髪の毛が風に揺れる所、皆とは違う制服を着て皆とは違う鞄をもって学校に登校してくる所、何もかもが神秘的に感じられた。少なからず他のクラスメイトよりは、彼女に対して興味を持っていた。 クラスメイトが、少しもこちら側に興味を示さない彼女に飽きて来た頃だった。そんな彼女が言葉を発する日がついにやってきた。しかし、その言葉は酷く衝撃的なものだった。 「私、沖縄も、ここの人も、何もかも嫌いなの。だから話かけないで。」 彼女が静かに、それも淡々と言い終えると、クラスは今までに無い程の静けさによって支配された。それから数秒後、クラス中がざわついた。クラスメイトたちが、彼女に対する不満を口々にしているのが聞こえた。 そもそも凛が悪い。部活中、執拗にについて聞いてくると思えば、今度はクラスにやってきて、毎日彼女に声をかけていた事がいけないのだ。休み時間になる度に話かけにくるものだから、彼女は鬱陶しくなって怒ったのだろう。 「寛、なまぬ聞いたみ? 冷たいいなぐぐヮーやさァ。」 「やめよーさいって言ったやんやー。」 ぎぎぎ、とイスを引く音がした方を見ると、が俺たちの方を向いて立っていた。右手には”ロミオとジュリエット”を持ったままだ。 「凛、謝りよーさい。」 俺は、俺の机の上に腰掛けている凛のお尻をつつきながら言った。は、黙って俺たちを睨んでいた。相当怒っているのだろう。 むずがりながら俺の机から降りた凛は、深々と頭を下げて謝った。しかし、の怒りは治まらないのか、それでも尚彼女は俺たちを睨みつけていた。何がそんなに気に食わないというのだろうか。 痺れを切らして、凛が「ぬーよ。」と彼女に食ってかかる。 空気を読んでか、たまたまなのか、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴る。 「じゅんにいほーないなぐばーよ!」 ああ、またいらない事をしてくれたと頭を抱える俺を他所に、凛は捨て台詞のように彼女に吐き捨て教室を飛び出して行く。 気付けば、彼女は席に戻って、再び”ロミオとジュリエット”を読み始めていた。凛の言うように本当に変な女である。 「アイツの言う事は、気にすることねーらんよ。」 次の授業で使う数学の教科書を机から引っ張りだしながら、気休め程度に隣の席に座る彼女に声をかける。 「あの子、そんな酷い事を言ったの?」 俺の方に少し身を乗り出して、囁き程度の音量で俺に対して返事をした。今まであんなに怒っていたとは思えない。クラスの他の女子とそう変わらない様子に見えた。何も無かったかのようにきょとんとした顔でこちらを見るものだから、俺は驚きついでに彼女の顔をまじまじと見つめてしまった。 すると、はハッとして前に向き直り教科書を引っぱりだした。それは地理の教科書だった。 「さん、次数学だしよ。」 そう伝えてあげれば、慌てて地理の教科書を戻し数学の教科書を取り出す。ありがとう、とぶっきらぼうではあったが小さく返してくれた。 そうか、と俺は思う。別に、変に変わった子ではないんじゃないだろうか。その事に気づいた俺は、毎日彼女に話しかけていた凛よりも彼女の事を知れた気がして優越感に浸りながら数学の授業を受けた。 砂浜の砂が、靴の中に容赦なく滑り込んでくる。靴下の中にも入り込む細かい砂粒を鬱陶しいと思いながら俺は、見慣れた静かな海を微動だにせず座って眺めている。 隣にいる彼女はというと、海に背を向けて俺の隣で小さくなって座っている。 数十分そうしていると、先に口を開いたのは彼女だった。 「私、海嫌い。」 「じゃあなんで海に行きたがったよ。」 あの日を境に彼女と少しづつ話すようになった。それから、彼女について分かった事が幾つかある。 1つ、彼女は、うちなーぐちが全く分からない。 2つ、東京には、彼女が想いを寄せる人が居る。 3つ、その人は髪色は違えど凛に良く似ている。 4つ、彼女は不器用で素直じゃないという事。(先日、教室であった出来事。黙って俺たちを睨んでいた訳ではなく、言い過ぎてしまった事を謝ろうとしていたが、中々言い出せずタイミングを失ってしまったらしい。) 「私、高校生になったら東京に戻る。母さんが何て言っても、戻るの。」 最近は、クラスの女子とも話しが出来るようになってきて少しずつ馴染み始めている。もともと彼女は、優しくて気遣いの出来る子なのだ。ただ、突然沖縄に放り出されて慣れない事ばかりで、困惑していただけだったのだろう。 しかし、先ほどの意志は堅いようで、ハキハキと一言一言噛み締めて言葉を発していた。泣いているせいか、鼻声ではあったが。 「高校生になる頃、きっとさんは沖縄から出たくなくなってるよ。」 彼女が顔をあげた。泣きはらした真っ赤な目で俺を見つめる。それから、なんで?、と震えた声で聞く。 自分のズボンのポケットに手を突っ込んでまさぐってみても、そこには彼女に貸せるハンカチは無い。自分が紳士的にハンカチを持ち歩く人だったら良かったのに、と少し後悔した。そのかわりに、彼女の頭に手を乗せる。妹たちはこれをやると、直ぐに泣きやむ事を思い出した。 俺が黙っていると、そんな事無いよ、と先ほどの言葉が堅い意志である事を自分で確認するように弱々しく呟く。そんな彼女の頬は、膝に突っ伏していたせいか少し赤かった。 「はいはい。そろそろヤーの制服取りに行くさー。」 さんの頭に置いた手に少し体重をかけて立上がる。彼女は、やめてよー、と怒りながら俺の手を掴んで一緒に立上がる。お尻についていた砂が、パラパラと立上がったあとから落ちていく。 海からやって来る春風はまだ少し肌寒い。 (卒業する頃には、うちなーが好きになってもらえるように頑張るよ。) |