簡単な言葉で片付けられる程、この気持ちは分かりやすいものではない。私が今まで感じた事のない、得体の知らない曖昧な何かのような気がした。恋や愛なんて大それたものなんかじゃ、ないはずだ。

 外は雨。閉め切られている窓に当たる雨の音が、教科書を音読する声が響く静かな教室とマッチして、子守唄を歌ってもらっているような気持ちになる。
 窓を軽く叩く雨音、聞き慣れたはずのクラスメイトの文章を読み上げる優しい声、時折先生が黒板にチョークで文字を書く音、これらに混じって小さな寝息がどこからか聞こえて来る。どうやら、この計られたかのように作られた夢と現実の狭間のような空間の誘惑に負けたクラスメイトが居るようだった。真っ白い髭を生やしたおじいちゃん先生は寝ている生徒を注意する事なく音読を静かに聞いている。私も気を緩めてしまえば、あっという間にあちら側に落ちてしまえる気がした。
 先ほど音読をしていたクラスメイトが読み終わり、椅子を引く音がした瞬間、雨音や先生が黒板にメモを取る音が聞こえなくなった。不自然にピタリと動きは止まり、背中が、耳が、緊張してそこに全神経が集中した。今まで、教科書に縦に並べられていた文字を追っていたはずなのに、現在地を見失った。それ所か、目を開いているはずなのに何もかもがぼやけてしまって、終いには何も見えていない感覚に襲われた。
 数秒感の間の後、再び椅子を引く音がした。それから、私が待ち望んでいた低い声が後ろから落ちて来て、私の耳へと入り込んで来る。

「ーー庄兵衛はただ漠然と、人の一生というような事を思ってみた。」(森鴎外の『高瀬舟』より一文引用)

 私が目を覚ました時は、すでに授業が終わって、昼休みに入るという頃だった。机の上に教科書がみあたらない所をみると、無意識ではあるがなんとか授業を受けきったのだろう。
 友人に声をかけられ、机を移動する。お弁当箱を机の上にだして、水道場へ手を洗いに行こうとした。ハンカチを手にして、教室を出る。
 手を洗おうと順番待ちをしている生徒の中に、皆より頭1つ分飛び抜けている彼を見つけた。友人と他愛の無い会話を楽しみながら、チラチラと彼を見る。目が合えば、その度に彼は「何?」と目で言いながら首を微かに傾げる。私は、小さく首を横に振って、友人との会話に意識を戻す。

ちゃんって、知念くんの事をどう思ってるの? 」

 奈々子ちゃんが当番日誌を書きながら、朝から降り続ける雨の運動場を眺める私に問うた。運動場は勿論、教室には誰も居ない。湿った教室には、彼女と私だけがいる。
 彼女の席は、知念くんの左隣で、ことあるごとに私が知念くんを見ている事を彼女は良く知っている。その為、彼女がいつか私にその事について聞く事をなんとなく分かっていた。私は、特に動揺する事もなく、知念くんの席に再び腰を降ろして淡々と答えた。180センチをゆうに越える大きな体を持つ彼が、160センチもない私と同じ大きさの机を使っていると思うと知念くんが少し可哀想に思えた。

「なんとも、思ってないよ。」
「そっか。」

 奈々子ちゃんは、そう言うとにっこりと笑って席を立って予定黒板の所へ向かい、明日の時間割を書き直し始めた。
彼女はきっと私が知念くんの事が"好き"なんだと勘違いしてしまったに違いない。それを、わざわざ言葉にして否定してしまえば、より態とらしくなってしまって、ますます彼女はそう思い込んでしまうだろう。だから私は、あえて言わなかった。
 予定黒板の日付の部分に、『卒業式まで、あと2ヶ月!! 』とピンクのチョークで書かれているのを眺めながら、私と彼の関係を考えてみる。
 私と知念くんは、3年間ずっと同じクラスだった。だからといって、親密な仲になる事は一度もなく今日まできた。挨拶をする、他愛のない話をする、目があう、それだけの仲なのだ。例えば恋人同士になってデートをしたいとか、手を繋ぎたいとか、キスをしたいとか、そんな風に考えた事は一度も無い。ただ、毎日言葉を交わしたいと思うだけで、目が合えば何かしら反応を返してくれる事が嬉しいだけで……何度か、休日に彼に会いたいと願った事があったが、そんなのは恋愛感情なんかじゃあない。
 広げられた筆記用具と英語のノートを少し机の隅へと追いやってから、視線を雨で濡れている窓へ移動させながら少し目を瞑った。あと2ヶ月で、彼との学生生活は終わりを告げる。

「なぁ、教えろよ。同じクラスの子やんばー?」
「ぬ、ぬーよ。居るなんて言ってないやっさぁ。」

 開け放たれた教室のドアの向こうから誰かが階段を上って来る音がした。足音と共に、男子生徒2人の声が近づいて来た。奈々子ちゃんは、ついさっき日誌を提出する為に職員室へ向かった。
 私はというと、知念くんの席に座ってうとうととしている。なんとも思っていないはずなのに、教室で一人この席に座っている事が気まずい気がしたが、心地の良さに負けてそのまま眠ってしまおうとした。声の持ち主の一人が教室に入って来た途端、眠気はどこかへ消え去って行って、国語の授業の時のように再び教室の出入り口の方に向けている背中と耳に神経が集中して体が緊張でこわばった。

さん、」

 私は、不自然にならないように体の方向を移動させて振り返る。そこにはやっぱり知念くんが立っていた。
 放課後のこの時間に制服を来て革鞄を持つ彼を見るのはなんだか新鮮だった。何度もこの教室で二人で会えたら、と思った事があった。しかし、その願いは今まで一度も叶った事が無くて、私はいつも教室から少しだけ見えるテニスコートを眺めていただけだった。こういう、何でも無い時に限って遅れて願いが叶う。

「ごめん、退く。」
「構わんさぁ。教科書取るだけさよー。」

 そう彼は言うと、私が座っている場所の隣にしゃがみこんで、机の中に手を突っ込んで英語の教科書を引っ張りだした。いつも自分よりずっと高い所にある知念くんの顔が、ずっと近くにある事に気づいて少し恥ずかしくなった。
 数秒感目が合って、知念くんは2回程瞬きをした。お互いに何かを言おうとして、何も言い出せずにいるような空気が二人の間に流れる。その間もずっと、教室には雨の音が響いていて、遠くから他の生徒が騒ぐ声がする。
 なんだか見つめ合っているのが可笑しくなってしまって、つい笑ってしまった。

「ねえ、なに? 」
「いつもさんが良くしてるやし。」

 くすくすと笑う私を他所に、知念くんは英語の教科書を鞄に仕舞い、それから近くの椅子に静かに座った。私は奈々子ちゃんがここに戻って来た時、どう説明しようか考えるのをやめた。
 いつもは二言程度言葉を交わすだけで、二人きりで話をする事はなかった。やっと今日、知念くんとゆっくりと話しをするという私の願いが叶った。

「そーいえば、高校は? 」
「大阪の高校を受験するの。」
「なんで、大阪に行く必要があるよ。」

 いつも教室では静かで、自分の感情を現すのが不器用そうな知念くんが少しだけ声を荒げて戸惑ったように話す。テニスでも見せた事の無い一面がある事に私は少し驚いた。それと同時に、私に対する感心がそれだけあるという事が嬉しかったのもあって、親に言われるがままに決めた大阪への高校進学を決めてしまった事を少し後悔した。今、彼に行かないでと言われたら二つ返事で大阪進学を取りやめてしまえる位浮かれていた。
 知念くんは、私が少し驚いた事に気づいたようで、少し恥ずかしそうに、申し訳なさそうにサイズの合わない椅子に肩をすくめて座っている。

「寂しくなるね。」

 私の適当な相づちのような言葉に対して知念くんは、少し眉間に皺を寄せて小さく笑った。彼の顔を見ても、目は合わなかった。凄く残念そうな、困ったような、そんな雰囲気で、彼はゆっくりと鞄を持ち上げて、教室から出て行った。
 知念くんが、教室をでて「裕次郎いくぞー。」と廊下で他の人と談笑していたであろう甲斐くんに声をかけている。すると、甲斐くんは楽しそうに右の方から知念くんの所に駆け寄って行く。甲斐君は、開け放たれている教室のドアからこちらをチラリと覗きこんでニカッと爽やかに笑ったと思ったら、知念くんに襟元を引っ掴まれて行ってしまった。
 甲斐くんを連れて行く間際に、知念くんが、こちらを見ていた事に私は気づかないフリをして机に顔を突っ伏した。


 それから数秒もしないうちに、入れ替わりで奈々子ちゃんが帰って来た。教室を出て行った時よりも、スカートの丈が少しだけ長くなっている。どうやら職員室で先生に注意されたのだろう。それ故に、日誌を提出するだけなのに時間がかかったのだと推測する。
 私は、机の上に散らかっている筆記用具と教科書を鞄に詰め込んで、帰る支度を始める。

「さっき、知念くんと甲斐くんとすれ違ったよ。なんか気まずそうな雰囲気だったけど、何かあったのかな。」
「知念くんはさ、私の事どう思ってるのかな。」
ちゃん?」

 唐突に話を切り替えたために、奈々子ちゃんは吃驚している。少し悩んだあとに、彼女は、「それは、本人に聞いてみなくちゃ分からないね。」とスカートの丈を短く直しながら返した。それから彼女は、「このままで良いの? 」と続ける。大阪の高校に進学しようとしている事を奈々子ちゃんは知っている。

「これって、そういう気持ちじゃないと思うから。ただの友達だよ。」
「そっか。でも知念くんは、そうじゃないかもしれないよ。」
「うん。」

 丁度クラスから出ようとした時に、奈々子ちゃんの彼氏さんと鉢合わせた。偶然なのか必然なのかは分からないが、彼女は彼と帰る事になったので、私は図書室で時間を潰して時間をずらして帰る事にした。奈々子ちゃんは、別れ際に酷く心配した表情で「気をつけて帰ってね。」と言った。きっと私の酷い表情を見て心配してくれたのだろう。

 雨の日の図書室のすっぱい匂いが私の鼻を刺激する。湿った空気によって引出された本と木の床の匂いが、図書室中に漂っている。放課後となれば、生徒は殆ど居らず私と委員だけがこの空気の中で呼吸をしている。
 英語の問題集を解こうとしても、1つの考えがぐるぐると頭の中を乱しつづけた。少しも集中する事ができずに最終下校時間を知らせるチャイムが鳴った。渋々と私は昇降口へ向かい、置いておいた私の水色の傘が無い事に気づいた。傘立てには誰のか分からない紺色の傘とボロボロのビニール傘が数本立ててあるだけだった。雨のピークを過ぎて多少は弱まってはいたが、依然として雨は降り続けている。
 教室にある置き傘を取りに行こうと、もう一度靴を脱いで下駄箱に向かおうとした時だった。数十分前に教室で会った彼が下駄箱の所に立っていた。

 不意打ちの登場に驚き、それと同時に彼に教室で会ってからどうしても掻き消せなかった考えが蘇る。何度も何度もぐるぐると巡ったその想いが涙となって溢れ出そうになる。今更自分のこの気持ちに名前がある事に気づいた所で、どうしようもないと泣きそうになるのを堪えるので精一杯だった。
 涙ぐみながら堪える私をみて知念くんは、何かに気づいたように「一緒に帰ろう。」と言った。きっと知念くんは、私でさえも今日まで知らなかった本当の私の気持ちに気づいてない。



身動きしないまま、

また三月が巡り巡る

(title by alkalism)