他の部員よりも数分遅れで、部室にやってきた忍足先輩がジャージに腕を通しかけていた俺の肩をポンと叩き、そのまま軽快な足取りで着替えている他の先輩の肩や背中をつつきながら自分のロッカー前まで移動した。そして先輩は、大きなため息を吐きながらゆっくりとロッカーの扉をあけた。
 「恋愛って素晴らしいなあ」
 その言葉を聞いて、その部室に居た誰もがそそくさと着替えてコートへ出て行こうとした。
 1人出遅れた俺は、先輩の後ろを通り抜けようとした瞬間に名前を呼ばれ捕まった。今日も跡部部長がやってくるまで、忍足先輩が観たという映画の話は続くのだろうとあからさまに肩を落とした。それでも、忍足先輩はその姿を見て見ぬ振りをしているのか、お構いなしに話を始める。
 「友情が成立していると思ってるのは、大体女の子の方や。男は自分の恋心に耐えられなくなって」
 日曜日に観たという映画の感想に、先輩の恋愛観を交えながらの話を延々と俺は聞かされた。その話を聞き流しながら俺は、との事を思い出しては胸を締め付けられる思いをしていた。


 あの日から彼女は、俺に対して「ありがとう」と仕切りに言うようになった気がする。ありがとうという言葉と一緒に、彼女はかならず笑顔を足す。それを言われる度に俺は、柄にもなく毎日動揺させられていた。
 彼女の「ありがとう」に惑わされていた所為か、現状把握が全くできていなかった。それでも、2人の関係が変わらない事の方に安堵していた俺は、時間が経つにつれてあの日の事を無かった事にした。
 高校に進学する頃には、彼女の「ありがとう」に慣れていったし、高校の先輩たちが卒業してしまう頃には、あの日から彼女が仕切りにお礼を言うようになった事さえも忘れてしまっていた。


 はマフラーを片手に、まだマフラーは早かったなあ、と笑いながら俺に話す。まだまだ本格的な寒さがくる日は遠いのに、彼女はホッカイロを持ち歩き、マフラーも何かあった時の為と言って持ち歩いていた。案の定、まだ秋になったばかりの東京は夜になっても然程気温が下がる事がなくマフラーの出番はまだ先になりそうだった。その事を薄々感じながらも、彼女はお守りのようにそのマフラーを抱えている。

 「来年の今日は、2人でここに居ないって思うとなんだか不思議。」
 2人が分かれる交差点で、先に足を止めたのはだった。
 「俺は、多分この道を相変わらず歩いてるだろうけどな。」
 俺にとって現実味の無いの言葉に大して、俺は素っ気なく返事をした。

 外部受験の為に予備校に通うと、内部受験だが奨学金を得る為に予備校に通う俺。は、来年の今日には東京よりもずっと早く冬がやってくる北海道に居るのだろうか。
じゃあ、また明日な。といつも通りに、話に区切りを付けて自分の帰路につこうとした時だった。彼女は俺の手首を掴んでそれを制止させた。

 「日吉、」

 大した力で掴まれた訳ではない。いつもだったら、掴まれた事に一瞬気付かずに手を振り解いてしまったに違いない。彼女の細い指が手首を包んだ時、俺は彼女の手の冷たさに驚いて何が一瞬触れたのか混乱した。それと同時に、こんな日の東京でさえ手を冷やしてしまう彼女は、冬の北海道に耐えられるのか心配になった。

 微かに吹く湿った風が襟元に入り込んだ。その瞬間、肌寒く感じた。
 掴まれた右手を軸に、俺は振り向いた。この交差点でこの角度から見る彼女は3年ぶりだという事をふと思い出した。鮮明に思い出された記憶の中を、一瞬の内に泳ぎきった俺は、視界の変化に違和感を感じた。少しあの時の数センチだけ視界が高い気がするのはきっとそれが3年前だったからに違いない。それだけの時間が経っても、あの日の事を完全に無かった事にはできなかったみたいだ。
 あの時も、彼女はマフラーを片手に持っていた。俺は、大きなテニスバックを抱えて冷静なフリを装って、今自分が立っている場所に木偶の棒のように立っていた。

 「どうしても、伝えておきたい事がある。」

 あの時は、俺が言った言葉だったが、今回はがマフラーを首に巻きながら俯き気味に切り出した。

 「ごめんね、私、どうしても、言わなくちゃってずっと思ってて」
 口ごもりながら、そう繰り返した彼女は、俺の顔をじっと見ながら笑っていた。
 「なんだかんだ、色んな節で日吉が居たから頑張ってこれた気がするよ。ありがと。」
 俺は、はっとして、急いで口を開いた。は、言いかけていた言葉をのみ込んで俺に発言権を譲った。

 「、俺」

 これが、最後のチャンスなんだと直感した。どう転ぶのかは自分でも分からなかった。それでも、今、このタイミングを逃してしまえば、きっと次は数年後にあるかどうか分からない同窓会の時になってしまう。と、延々と忍足先輩に聞かされた、俺が観た事も無いラブロマンス映画の展開とこの状況を重ね、自分を鼓舞させた。

 「俺の方こそ、ありがとう。」

 残念ながら俺が振り絞って出した言葉は、ありふれた言葉だった。しかし俺は、満足した気持ちに浸っていた。その言葉を発する事さえも俺にとっては、勇気が必要だったからだ。
 気恥ずかしさを振り払いながら視線を彼女へとあわせると、変わらず彼女は微笑んでいた。その彼女の表情をみて、3年も経て尚、成長も変化もない自分自身の意気地のなさを思い出した。
 口ごもる俺を置いては、「じゃあ、また明日ね。」と手を振りながら歩きだした。

 西から雨雲がやってきているのを見つけて、俺もゆっくりと自分の帰路に着く事にした。
 映画の主人公のように思い切れなかった自分の事を、あれはただの娯楽映画であってああ上手くいくはずがない、そう言い聞かせて俺の意気地のなさを棚に上げて、なぜ”言わなかったか”という言い訳を探した。




ぬるい淡水の中で

夜を過ごす