人、それも男というものはとても単純な生き物だと俺は今日も思う。 盲目的に、 それから ここの所一日一日が、一週間が、あっという間にすぎてしまう事が憂鬱に感じてしまう程毎日が楽しい。 日曜日の夜は、月曜日が待ち遠しくてなかなか寝付けないし、金曜の夜は、次の日に授業が無い事に酷く落ち込む。毎日彼女の顔を見る事が出来れば、もっと幸せなのにとさえ思う。 気持ち悪いと思うかもしれないが、そういうものなのだ。好きな子のどこが好きだとか言い表せない位、愛おしく感じる。彼女が笑顔を見せるだけで、今日一日生きていて良かったと心洗われる。 彼女の事が好きだと気づいた日から、俺の気持ちはより加速していった。 そんな彼女とは、去年の学園祭以来言葉を殆ど交わしていない。 朝練を終えて軽くシャワーを浴びる。さっぱりとして教室へ続く廊下をジローと歩く。反対側からは、登校して来たばかりのさんが歩いて来る。ミディアムショートの髪の毛が、歩く度にゆらゆらと揺れる。 ジローは、眠けに打ち勝とうと、必死に昨日のバラエティ番組がいかに下らなかったかを話している。俺はというと正面左側からやってくるさんに気持ちを持っていかれていて、常にうわの空。話が噛み合っていないかもしれないが、お互い違う事を考えているため気にならない。そんな気にする余裕なんて、もともと無いだけなのだ。すれ違うクラスメイトが「おはよう」と声をかけてくれても俺は、機械的に「はよ」と返すだけ。 ドキドキと胸を高鳴らせ、不自然に感じられないように彼女の隣を何事も無いかのようにすれ違う。本当は、おはよう、と声をかけられたら良いのにと思っている。しかし、そんな勇気が出るはずもなく、今日も平然を装って教室へ向かう。 そんな彼女には、 「斉藤……祐介くん。」 それは放課後で、教室に忘れ物を取りに行ったときだった。折角なので、遠回りをしてさんの教室の前を通れば、運良く彼女に会う事が出来るかもしれない、という余計な考えを実行してしまった結果だった。 教室からは、聞き覚えのあるさんとその友人が談笑している声が聞こえた。最初はざわざわとしていたかと思えば突然静かになって、さんは、吹奏楽部で俺と同じクラスで、それでいて目立つ訳でも目立たない訳でもない奴の名前を呟いた。その瞬間、数人の女子が少し興奮気味に「うそー!」だとか「えー!意外!」だと盛上がった後に、「いつ告白するの?」とはしゃいでいる声がきこえた。さんに詰め寄っているであろう事が、教室から漏れる会話から容易に想像する事が出来た。 俺は歩くペースを落とすことなく教室の前を通り過ぎる。 小さな声が聞こえた。「宍戸君に聞こえたかな?」「聞こえても、平気。宍戸君はバラしたりする人じゃないよ。」そんな会話はどうでも良かったが、耳だけが教室の前に取り残されているんじゃないかって錯覚する程しっかりと彼女達の会話の声を拾った。 今日も変わらず彼女とすれ違う。あの会話を聞いてから、彼女がチラチラと俺を気にしているみたいだが、俺はいつも通りに平常心を装って教室へ向かう。 相変わらずジローは、眠そうに昨日のテレビの話をしている。真面目に話しを聞いてみると支離滅裂で、そんな話しに俺は真顔で頷いていたのかと思うと妙に面白くなってしまって笑ってしまった。 そんな風にして歩いていると、斉藤が教室から楽器を抱えて走って出て来る。 「宍戸、おはよう。」 「おう、はよ。」 斉藤は、いつも通り俺の横をすり抜けて、さんを追い抜いて、その先にある第二音楽室へと入って行く。彼女はどんな表情で斉藤の背中を見つめているのだろうか。 いつもと変わらない朝。いつもよりしっかりとシャワーを浴び、最後に水を浴びて俺は気合いを入れた。今日はジローは不在だ。あいつはきっと部室のソファーで居眠りをしている。 「さん……はよう。」 お互いに目が合った瞬間、今まで一度も出来なかった事を俺はやっと実行した。でも、この行動は俺の為なんかじゃなくて、さんに勇気を出してもらう為のものだ。 「……おはよう、宍戸君。」 さんは一度凍り付いた後に、ぎこちなく挨拶を返す。する会話も特にないはずなのに、俺が足を止めた事でさんも足を止める。 きっと一秒や二秒程度間だっただろう。そんな間ですら俺とさんにとっては、苦痛で長い時間だった。しかし、その沈黙はあっという間に破られる。もともとその予定だった。 「宍戸、おはよう。」 「お、斉藤はよ。」 斉藤は、廊下のど真ん中に突っ立っている俺を見て、いつも通り挨拶をする。ちらりとさんをみると、俺なんかではなく斉藤に釘付けだった。凍り付いていたのが嘘みたいに、少し口元が緩んでる。 「スマン、そこちょっと通っていいかな。あ、さんおはよう。」 あからさまに邪魔になっている俺の少し後ろに居たさんにようやく気づいたようで、この半年間俺には出来なかった事を、平然とそれもずっと俺より自然にやってのけた。 「斉藤くん、おはよう。」 さんが斉藤に挨拶を返した時、俺は既に教室へと足を進めていた。二人のやり取りを見届けるだけの余裕が俺には無かった。 次の日から俺は、ホームルームギリギリまで朝練をするようになった。できれば、今直ぐにでも彼女の事は忘れたかったし。もし、自分の思惑通りあの日をきっかけに二人の仲が良くなっていたら……と思うと、後悔がじわじわとやってきて自分の未練たらしさに腹が立った。 「宍戸くん、どうして?」 ある日の掃除の時間だった。俺は焼却炉コンテナにゴミを運ぶ当番で、一緒に運ぶはずだったジローを探しながらゴミを教室から移動させていた。 視界にチラリと入ったが気づかない振りをしていた。なのに、さんは構わず俺に近づいて来た。彼女が、俺の制服の袖を少し強引に引っ張って真っすぐと問う。 昨年の学園祭。この表情はそれ以来見ていなかった。普段は頼りなさそうなのに、スイッチが入ると自分の気持ちに率直で素直になる所に俺は惹かれていた。 「別に、」 言い切る事なく、俺はゴミの移動を続ける。それでも彼女は掴んだ手を離さない。振り払う事もできるはずなのに、もう彼女は俺になんかになびくはずもないのに、彼女に嫌われたくないという一身で一切抵抗をしなかった。 「ありがとう。」 彼女の顔を見ると、先ほどとは打って変わっていつも通りの頼りなさそうなさんに戻っていた。しかも、凄く幸せそうに笑っている。こんなのは、反則だ。と思った瞬間、Yシャツ越しに微かに彼女の指が触れている部分を中心に脈を打っている感覚に襲われる。それとほぼ同時に、目眩がするほど顔が熱くなるのを感じた。 「悪ィ、ジロー探さねえと。」 今直ぐにでも、手に持っているゴミ箱を投げ捨てて、それから近くの窓から外へと飛び降りて行きたいと思った。飛び降りたって、怪我1つしない自信が不思議と湧いていた。 しかし、意外にも冷静に考えられる俺もそこには居て、変な衝動に駆られる俺をひたすらに、勘違いをするんじゃない、勘違いをするんじゃない、と宥めた。 最初は彼女の笑顔が純粋に見たくて、どうにか二人を近づけたくて必死だった。いざ行動を起こしてみると、あの笑顔が自分に向けられているものではないと気づいて後悔に襲われた。こんなはずじゃなかったんだ。この結末を望んでいた自分と、望んでいなかった自分が喧嘩する。 それから数日後の放課後。俺とジローが教室から部室に向かっている時に二人が並んで歩いている姿をみた。ああ、終わってしまったんだなあ、と思う。自分の未練たらしい部分が見え隠れするが、見ないふりをしてその気持ちに蓋をする。 明日も明後日も俺たちは同じ場所同じ時間にすれ違う。 |